二十絃から二十五絃へ

二十絃箏を作って32年、二十五絃箏を作って10年目を迎えています。
この間、沢山の試行錯誤を重ね、ようやく『これでいいかな?』と思う楽器になってきました。
私が理想としていた箏―
【十三絃箏が持つ音域を全て一面でカバー出来、低音域も充実し、更に箏の内面に踏み込める独奏楽器】
となったことを嬉しく思っています。
この為に多くの方のお力添えがありました。

これからは、良い作品がどんどん生まれ、若い演奏家達が育ってくれることを願っております。

二十絃箏の製作を決めた時点から、細かく過程をメモしていたものがありました。
改めて見てみると、当時の情熱と苦労がよみがえってきました。
その後作った二十五絃箏は、二十絃箏の集大成と思っております。
これらの楽器の製作過程をホームページに載せるという形でまとまる事を嬉しく思っております。


2001年2月13日

野坂惠子




野坂惠子第2回【箏】リサイタル−二十絃箏のための−
−ごあいさつより−

四年半前の第一回リサイタルを持ちまして以来、
漠然と従来の十三絃箏に限界のようなものを感じておりました。
それは一曲の演奏中、楽章により箏を変えなければならなかった不便さを、
絃がもう少し多かったら避けられたからでもありました。
作曲者側からはもちろんのこと、演奏者側からみましても、
箏の絃を増加することにより、ある面では演奏が楽になるのと同時に、
技法上何らかの発展が期待出来るのではないかと考えておりました。

その意識を実行に移してくれたきっかけは、43年6月、
男性合唱団東京リーダーターフェルのドイツ演奏旅行に同行した時でした。
海外で外国人の聴衆に演奏した時、桐の胴に絹の絃を張り、象牙の爪で奏する音色は
絶対的に<日本>であり<箏>以外の何ものでもないことを再確認させられ、
日本の古来の箏のあり方もさることながら、
これらの材質を変えなければ箏の形態をある程度変えてしまうことに、そう大きな抵抗を感じなくなりました。

そんな時同行した作曲家の三木さんからも箏の表現力を増やす改革をしたらと励まされ、
私の所属している日本音楽集団の目的にも合致しますので43年の暮れ、実行にふみきりました。

まず、絃の数ですが、作曲者の中・低音域に対する要望と、
独奏楽器としての豊富な表現能力という点から検討しまして
最終的に必要最小限の本数である、20本の絃を張ることに致しました。
更に、この際、絃の増加にとどまらず、
会場楽器としての大切な資質であります基本的な音量の増加と共に、
前方への音の送り出し対策と、それに基づく立奏台の改良、
糸巾の検討と、調律器及び消音器の開発も行いました。

今日、このように発表する二十絃箏は、私なりに初期の目的をほぼ達したと信じておりますが、
今はただ、1人でも多くの方々がこの二十絃箏を理解され、弾いていただき、
これからの日本音楽発展に少しでも役立つものであればと念じながら、練習に励んできました。

採算を度外視して、二十絃箏の製作にあたり、数多くの便宜を図ってくださった皆様、
またこの演奏会のため、いろいろ心を配ってくださった及部さん、長広さん、赤松さん、日本音楽集団の皆様
そして賛助出演の皆様に心からの感謝を申し述べます。

昭和44年(1969年)11月7日

野坂惠子



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